人が気になる

予言
予言

ごくたまに、占い師とゆう職業の方に会ってみることがある。

特定の方にというわけではなく、その時気になった方。占いという学問に興味があったり、占い師という職業で生きてゆこうと考える「人」に興味があったりする。

寺山修司さん好きなんですが、あの作品のココがどうでこうで、、とかでなく、寺山修司という人がどんな人だったのかが、、やっぱり、、知りたい。

「あ、この作品素敵」って、思う時、レイアウトだの、何だのでなく「このひと、、どんな人なんやろ」ってところに興味がわく。

昔、建築に興味があった時、高松伸さんの本を開いて読んでみようと試みた。難しい単語で理論武装されていて、歯が立たない。こ、この難解な言葉の鎧を引き剥がしたら、中にどんな人入ってんのやろ?ってすごく興味があったのですが、、、挫折した(笑)

子供の頃、ホラー漫画が好きで集めてたんですが、親が怖がって(女版、宮崎勤になったらアカンから(笑))全部無断で捨てられてしまった。けど、ただのスプラッターなものには興味がなく、残忍にもなってしまう人間の、、怖さとか矛盾、みたいなものとか。やっぱり「人」に興味があったのだと思う。

横溝正史の金田一シリーズも好きだった。

稲川淳二さんの怪談が好きだった時も、怖いのが好きなのではなくて、死んでしまっても残る念、、みたいなものに興味があったり感動したりする。前にも書きましたが、怖いのは嫌いです。幽霊スポットとか夜の墓とか近づきたくありません(笑)

「人」って、ふしぎ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

作品の中

自分の居場所
自分の居場所

作品の中に入るという感覚を教えてくださったのはMarc Borthwickというアーティストの方でした。ある本に出ていたインタビューからでした。

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写真を通して時間をシェアする方法について、彼自身、こんなふうにも語っていました。
「僕の写真の中に、繰り返し繰り返し入り込んで、それを体感して、あなた自身がその時間の一部になればいい。たとえば、壁の写真の中で昼寝をしても、本を読んでも、ただただ座っていてもいいんだよ」

~peep paper vol2/トリトンカフェ・パブリッシング より

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なかなか自分らしく生きるとは、難しい。
好きなコト意外に、生きるためにしないといけないコトも沢山ある。
好きな音楽や写真や絵の中に、居場所を提供してくれるものがある。
ちょっと、ここで休憩しなよ、と居させてくれる。

ビールの泡

遠くの空は晴れている
遠くの空は晴れている

 

ビールの泡

なんだかんだ小難しいコト言ったところで、
ビールの泡とともに掻き消されることもあるのである。

縁切りカッター(もとい円切りカッター)で切られることばかり、て、、。
私も離れようと思った一人だし、離れて行った人の気持ちはわかる。
きっと、この方は人に誤解されることが多い方なのかもな、、とか。
なんて、優しいんだ、自分( ;´Д`);;;;;;;;(笑)

いいことなのか分からないけど、何が何でもしがみ付くって苦手だ。
自分がいつも正しい訳でないし、自然の流れに任せるべきときもある。
とりあえず、頑張ってイメージイラストつくってみるよ。

で、、距離を置く計画は、、失敗。
しばらく彼らの活動に参加して様々学ぶように、との神の声、聞こえる。

廃墟

宝探し
宝探し

 

廃墟

世の中には、廃墟好きと呼ばれる人がいるけれど、私は廃墟が嫌いです。

嫌いというより、怖いというか、近づきたくない。

今、あるキッカケで「原発は滅びゆく恐竜である/水戸巌」という本を読んでいます。
この中で、石炭→石油→原子力という流れとエネルギー問題について触れているところがあり、
この石炭→石油の流れ、、子供のころに見た強烈に怖かったあのCM、、、。

いつだったか廃墟好きの友人が軍艦島に行った話をしてくれた。
今みたいに観光地になってなくて、地元の漁師さんに頼んで船に乗せてもらったんだそうです。
聞いていて、何となく浮かんだ〝子供の頃に見た怖いCM″公共広告機構の、あれです。
その話をしたら、そのCMの撮影現場こそ軍艦島なんだと教えてくれた。

あのCMの影響なのか分からないけれど、、、
廃墟=崩壊した誰かの日常 という重くてしんどいイメージ。
このイメージが廃墟嫌いの原因なのか、、江原さん的に、、霊的な何かを感じるのか?
分からないけれど、廃墟が美しいなどという感じ方は、私にはできそうにない。

距離

落葉
落葉

今まで仲良く属していたグループから自ら距離をおく。

距離を置こうとする理由が、安定志向の人達の中にいるのが落ち着かないから、という理由であることに、最近気づいた。
じゃあ、実際どれだけのスピードで進んで何を成し遂げているのか?
ときかれると、、、何も言えない。
潜在意識が、新しい何かを取り込むためのスペースを作っているのだ、と信じたい。

 

みち

みち
みち

先日、親友とツーリングで和歌山県の九度山を訪れました。

ツーリングといっても、150ccのバイクに乗る彼女に、私が原チャでついて行く、というもの。

私は原付での遠出は初めてで片道70kmといえど小さな達成感を得られた。

九度山と言えば、かの真田昌幸、信繁親子が蟄居していた地。

大阪の陣に際し信繁が蟄居先の九度山から大阪城に極秘に逃走したルートと考えられている道が2パターン紹介されていた。その一つが、まさに私達が大阪高槻からバイクで走って来た道だった。

この道は当時からあったの?と不思議に思い調べてみるけど、いつからその道があったかなど分かる訳はなく、、ただ、ある時点から「国道170号」と名付けられたという。

そこに大阪城があるのは知っていたけど、そこで歴史的戦があったとイメージしたことは無かったし、国道170号線がイニシエの昔から道として存在していたなどと考えてもみなかった。

 

 

 

オモイ ハ 何処へ

オモイ ハ何処へ
オモイ ハ何処へ

絵日記を再開しました。

ココロに行き場のない思いがたまっているコトに気付いたから。

 

相手を思って一生懸命描いても、当たり前のように流されるのは、私の力不足なのかな?

それとも、この場とは深く関わらないように、、というメッセージ?

強制的に立ち去ろうともせず、ただ目前の課題をこなしながら神の采配に従おうと思う。

そこから何を学ぶか。

誰が偉いとか偉くないとか上とか下とかではなく、意識レベルが違う者同士が集まり、ものづくりするのは、難しい。

いつか、分かり合える仲間に出会いたい。

お気に入りの音楽の中にだけに、居場所がある、、、